君の 優しさと 正義

すきなものを すきなだけ

よだかは誰がころしたの?

 

ザム3が発売になったのが平日のど真ん中。

次の日が仕事だろうと何度も円盤を回しまくった。

止められない感情とパッションを持て余し弔いとしてこの人物について語ろうと思う。

 

このストーリーの中で圧倒的に気高く崇高な男。私利私欲とは無縁の骨の髄まで自己犠牲の塊のような武神。

もうダメ、抑えきれない!!辛すぎる!!心が痛い!

一体スモーキーが何をしたというの!!身寄りのない人々に家族という絆を与え、愛を教え、弱いものたちのために誰よりも強くなって、街を守り守護神と呼ばれただけじゃないの!!!

全く、こんな世の中間違ってる!!と声高にして言いたい。

 

でも、これがまさに世知辛い世の縮図のような気もする、

HIGH&LOW THE MOVIE3 FINAL MISSION。

 

※本記事はハイローシリーズ並びに映画のネタバレを大いに含みます。また個人的主観に基づく考察ですのでお口に合わない方はブラウザバック推奨

 

 

SWORD地区には5つの拮抗する勢力がある。

簡潔に言えば大人に成りきれないやんちゃな男たちといえばいいのか。5つのチームを一つの言葉で括ることは難しいがどこのチームもヤンキーと言い捨ててしまうには惜しいくらい一本筋が通っている。

とはいえやれメンツだ、仲間だ、女だ、プライドだとそれぞれの自分自身の譲れないもののために暴力で諍いを繰り広げているのだがその中でも一際異彩を放つ地区がある。

 

無名街―――

親に捨てられたもの 身元を隠すもの 行き場を失ったもの

深い闇を抱えたモノたちが集まってできた治外法権の街

これだけ聞けばさぞや荒れ果てた 無秩序は場所だと思うだろうが、

実際は 守護神がいることにより統制を保たれた 一種のユートピアである。

 

彼らが守りたいものは己のプライドやメンツではない。人間の営みの根幹である生活である。彼らのささやかな願いは 家族と暮らす平穏な日々である。

この本質がこの地区が他の地区に比べて異質な理由である。

彼らに足りないのは圧倒的に絶対的な愛である。人間とは土台に揺るぎない愛情を注がれて初めて自分のことを考えることができる。枯れ果てた大地に花が咲かないように自分を咲かせるためにはその土地を耕す必要があるのだ。

 

これを比較するには山王地区が一番分かりやすいだろう。

ハイロー シーズン1にて描かれるのは商店街全体で子供達を見守る大人達の存在。その上で子供たちは本当の仲間を見つけて成長していく。

 

 

 馬鹿の特権は後先考えずに行動できることだ、馬鹿。行ってらっしゃい。

                  シーズン1 第七話「チハル」

 

 

彼らも無闇に喧嘩をしているわけではないが失敗しようが仲違いしようが帰るべき暖かい場所がある。拳を突き合わせる仲間だとか肩を並べて夢を語るだとか何でもないような平凡に思えることは、全て愛と居場所が過不足なく与えられて初めて考えることが(手を伸ばすことが)出来るものなのである。

 

 

一方で無名街の住人は愛も居場所も知らずにこの街にやってくる。

そんな場所では夢も希望も未来も思い浮かべるには過酷な環境だろう。

ただ、そこには守護神と呼ばれる存在がある。

スモーキーは街にいる血の繋がりもない見ず知らずの人々を家族と呼ぶ。ラベリングとは忽ちその集団に意味を与える。それは誰かと繋がっているという実感、一人ではないということ、即ち愛である。

RUDEBOYSとはそれらの家族を守るために作られた組織である。その存在によって街の住人は初めて絶対的に自分を守ってくれる存在(ニアリーイコール家族)に出会うのである。

家族とは1人の男と1人の女が愛し合うことによって生まれる。宗教じみたことを言えばまさに人間が神から与えられた生殖という機能と愛という本能の結果である。誰もが生まれた時に持っているはずの絆である。

それを彼らに擬似的であれ与えたスモーキーという存在は間違いなく“神”なのだろう。

 そしてその先に「高く飛べ」という言葉がある。これはスモーキーの口癖でもあるのか作中何度も登場してくる。愛という基盤を固めて、それを踏み台として高く飛べというのだ。これは最終作 FINAL MISSIONの言葉に繋がってくる重要な意味を持ってくる。

 

 

そうして神と呼ばれるスモーキーだが一体どんな人物なのだろう。

無名街、ひいてはスモーキーを語るのに重要な彼の言葉がある。

 

優秀な奴が夢を描いた 優秀なだけに夢はどんどん実現しそいつの周りにはたくさんの人間が集まった。そして夢が叶った。多くの人に祝福された。 ただそれはそいつの最高の瞬間でしかなかった。 優秀な人間は他にもいる。そして無能な人間もいる。

夢はあったが 無能な故に 夢が叶うことなく平凡な日々を送った。ずーっとだ。

 

  両者の共通点が分かるか?

 

生まれてきたということだ。 夢が持てるということだ。

            シーズン1 第6話「RUDE BOYS」より

 

 

持つものと 持たざる者

無名街の住人は後者に当たるのだろう。それでも平凡な日々を送ることが出来る。生きて、夢を見ることが出来る。これがスモーキーが描いた理想郷だ。

 だからこの言葉に否定で返した男は許されない。明確な繋がりのない人々を言葉だけ束ねていくのは一筋縄でいくものではないだろう。無名街は家族という甘い言葉で繋がりながらも厳しい秩序がある。

その証拠にRUDE BOYSの中核メンバーであるシオンも理由はどうあれ家族を脅かす存在としてこの地を追放される。臓器を置いていけと厳しい言葉を浴びせられる。

しかしスモーキーは実際にはそうしない。その後に続くのは「消えろ」という声だ。それが意味するのはシオンも残る家族も両者とも守ることの出来る選択肢だ。

彼は孤高であり、意思と行動指針をハッキリと持っている。どこか近寄り難く気圧される気配を纏っているが彼の表情や言葉の一つ一つには暖かさと情がある。故に圧倒的リーダーであり時に圧力的に見えてしまいそうなのにも関わらず慕われる。信仰される。

それは彼が寡黙でありながら内に秘める愛を伝えることを惜しまないからである。

 

そしてその至極の愛がFINAL MISSIONの最後の言葉となる。

 

 動き出した九龍グループに追い詰められ、武器を持たぬ彼らでは抵抗が出来ない窮地に陥った時。あれだけ諦めないと言ってきた無名街という場所を、解き放ちます。

それに反発するRUDEにスモーキーは微笑み語りかける。

 

 俺たちはいつも誰かのために生きてきた。 助け合うことでしか生きられなかった俺たちは みんな誰かのために夢を見ていた。 でももうそれじゃダメだ。

 

 

これは前述の通りである。必死で生きてきた彼らはいつも“自分”というものを犠牲にすることで愛を生み出してきた。それを最も体現していたのはスモーキーである(THE MOVIE1でも家族を逃がすために一人で最後まで残っている)

 しかしそれではダメだ。スモーキーは悟ったのだ、いつも傍にある存在が愛で溢れていることに。そしてもっと「高く飛べ」てしまうことに。

気づいてしまえばいつまでも留まり続けるわけにはいかない、奇しくもそれは無名街を燃やされた時旗に刻まれた 『CHANGE or DIE』 が暗示している。

 

 これからは他の誰かのためじゃなく 自分のために夢を見て欲しい。

 新しい場所で。

 

 

これがシーズン1よりずっと出てきた 「高く飛ぶ」ということである。

そしてこう続く。

 

 心配するな、みんないつまでも一緒だから。

 

 

つまりどこにいても、無名街という“場所”がなくなるだけだ。そこはただの無機物であって本当の中身は自分達一人一人だろう、そしてその繋がりだろうと。

もしこれから先、散り散りになったとして 彼らの中にお互いの存在は居座り続けるだろう。確かな愛で結ばれた絆を忘れたりは出来ない筈である。それはまるで本物の家族のように。いや、この言葉を口することでスモーキーはその愛を、家族という縁を本物にしたのだ。ただただ場所や土地で縛られているものではない、確かなものとして。

だから、

 

今の俺たちなら どこでだってやっていける。

 

 

 

と。

凪いだ穏やかな表情は、何を思っていたのか。

死を目前にして少しでも怖くはなかったのだろうか。

最後まで引きとめようとするタケシの一粒の涙は、スモーキーへの絆と愛だった。それはスモーキーにとっての光で救いであったらいい。

 

 

 

 

ここまでまるで美談のように話を展開してきたが、もちろん無差別に多くの人が住む街で、どこか満たされない者たちの集合体が美しい話で終わるはずもない。

 

その綻びこそ 二階堂である。

無名街を愛の街と築き上げたスモーキーに反して 二階堂は無名街出身でありながらその場所を、自分の惨めたらしい過去を憎んでいる。そしてそれを消そうと躍起になっている。

同じ場所にいながら二人の目にその場所は全く違うものに見えたのだろう。

二階堂には愛が見えなかったか、見落としていたのか。少なくともその“場所”はただの“場所”でしかなかった。

 

 なぁ、スモーキー。お前どうしてこの”場所“に拘る。

 

 お前には分からないだろう。

 

 

このやりとりには、お互いの無名街への認識の相違がハッキリと浮き彫りになっている。

スモーキーが拘っているのは無名街ではない。その街を構成する人々なのである。

そして笑う。満足そうに

 

この街に捨てられた日俺は誰からも忘れられた。

 だが、この街で本当の家族を知った。血よりも強い絆で結ばれた家族

 未来を信じ 家族と共に幸せに生きることができた。

 

全く最高の人生だった。

 

 

誰からも忘れられた一人ぼっちのスモーキーを救ったのは―――

 

彼は愛することで 愛され 孤独を抜け出した。

与えるばかりの 神様は、 与えることで 幸せになった。

彼は神様などではなく 一人ぼっちが怖い ただの男の子だった。

 

 

 

そうして幕を閉じた彼の人生。

駆けつけた家族は彼の肩を抱き、傍で泣き伏した。

それさえも 彼がどう生きてきたかの証だ。

 

もうすぐ無くなると分かっている場所で、簡素な墓を前に集まるRUDE。

傍で見守りながら雅貴が本当にこの場所でいいのか?と問う。

それに対して広斗はこう返す。

 

 きっとここがいいんだ。あいつにとってはここが天国だ。

 

 

 

唯一自分が血の繋がらない兄弟ということを負い目に感じて生きてきた広斗だからこその言葉である。彼の立場はRUDEの境遇に通じるものがある。そしてこの言葉があったからこそ私はスモーキーの死を受け入れることが出来た。

確信したのだ。強がりではなく、彼の人生は間違いなく幸せだったと。

 

 

 ラストシーン タケシが「スモーキーはもういない」と言う。

強い意思を込めた言葉だ。前を向いて歩いていくための。ただ、彼がスモーキーの言葉を踏襲するところではまるで彼が乗り移ったかのような口ぶりであった。「スモーキーはもういない」が彼らの中には確かに息づいている。

 

 

 「大上下知有之」

大上は下これ有るを知るのみ

 

最上の君主というのは 人がみなその人がいることを知っているだけだ。

真のリーダーとは 巧みな話術も 小賢しさも 権力も要らない。

その存在が 心に認識され続けること。

 

それを示してくれたラストは、彼の真の願いを叶えてくれた。

 

『見つけてくれて ありがとう』


これで彼は 永遠に独りぼっちになることはない

 

Alternativeのない存在

 

自分は今まで、それこそ小学生の時分からヲタク気質だったと思う。

 

兄の部屋へ毎週忍び込んで読み込んだ少年誌の漫画やアニメ、クラスの友人を介して触れた某大手事務所のアイドルと好きになったものはとことんのめりこんで深く追求するタイプだった。ただ少し臆病で疑り深い性質故、本当に好きになるものはいくら二次元であろうが三次元であろうがその人間性や在り方を知ってから!という謎のポリシーを持っていた。この世に存在しないキャラクターやテレビの向こうのタレント相手に何を大げさな、と思うかもしれないが、その実自分が信用してきたものは学生という身分を卒業し社会に出て数年経った今でも推し続けているし雑誌、テレビ、作品、ラジオ、舞台とあらゆる媒体を通じて得られる彼らの言葉や在り方に疑問を持ったり、不信感を抱いたり、がっかりしたり、裏切られたと感じたことはない。

 

だから自分が選びとってきたものに対して個人的に結構自信を持っていたりする。

 

なので今日はこの人の話をしようと思う。

 

窪田正孝という俳優について。

 

自分は元々二次元も三次元も心を動かすものに対して好奇心に突き動かされるまま比較的幅広く手を出してきた。ただ、深く掘り下げるという観点からいくと俳優という職業は他のコンテンツに比べて情報が少ないという欠点がある。(三次元として推していたのが業界として力の強い大手事務所のアイドルだったということもある)

ドラマは気になったら見て、話が面白ければ最後まで追うというスタンスで、役として好感を持っても結局は1クール三ヶ月で終了。ましてや数分のワイドショーやバラエティ番組の出演では深く知る間もないというのが正直なところである。

なので自分にとっての窪田正孝という存在は好きな俳優を上げろと言われたら頭に浮かぶくらいの存在だった。

恐らく初めて彼をしっかりと認識したのが「最高の離婚」「カノジョは嘘を愛しすぎている」「ST」辺りだったが演技が上手いとか独特な雰囲気がある人で好きだなというのが主な感想でその当時はさらに深く知ろうとしなかった(それが今はとても悔やまれる)なんにせよそれ以降の作品についてはちょうど私生活も忙しくドラマや映画を見るという習慣がほとんどなくなったことによって尽くスルーされていった。ただ、時々別の界隈にいる中で入ってくる情報によってあ、デスノート窪田くんが演るんだ、と思ったりフォロワーさんが好きな原作である有栖シリーズがドラマ化するという情報を知ったりとその存在はどこかで自分の中で好意的に掠めていたのは間違いない。現に全巻揃えている東京喰種の映画化に最初はあまりいい印象を抱いていなかった自分は主演が窪田正孝であることを知って少し興奮した。未完結の物語を1~2時間でどのように描かれるのかという怖さはあったが彼が演じるのであれば見てみたいという気が湧いてくる不思議な役者さん。彼のことを深く知っているわけでもないのに妙な信頼感がある。変なの、不思議だなぁとモヤモヤとしたものを感じながらもその理由を知ることになるのは約半年後。

 

アンナチュラ

この時も自分の社会人人生で一番忙しい時期であり正直ドラマどころではなかった。というわけで結局ドラマを見始めたのは珍しく録画しておいたものを気が向いて再生しようとした3月の終わり頃。ドラマを録画しておいた理由は元々石原さとみ井浦新が好きで(リッチマンプアウーマンはかなり観た)そこに窪田くんも出るというので好きなものづくめであったからだった。

まず見始めて思ったことはテンポ感があって面白いということ。

難しい内容を取り扱っているはずなのにするりと頭に入ってくるのはその軸が人と人の繋がりという誰にでも身近にある題材だからだ。これはただの医療技術の話ではない。死を通じて生を描く、生と死の対比。それが殊更綺麗に表現されていたのは第8話「遥かなる我が家」であるように思う。そしてこれがまさに窪田正孝に魅入られる運命の話だった。

正直この話にたどり着くまでにも久部六郎の健気な純朴さと善悪の狭間で揺れるいっそ優柔不断とも言える優しさにくらりときていたわけだが(くそう、六郎可愛すぎる、天使かと何度呟いたか分からない)この話にトドメを刺されたのは間違いない。

週刊誌編集部とUDIの間で揺れていた理由である六郎の抱える問題を暴きながらも火事場で亡くなった男性の死の真相を紐解き、死後、人々は一体どこに還っていくのかということ問う構成になっている。柱としては3本立てになっているわけだが複雑に絡まってしまうわけでもなく一貫してひとつのテーマを回収していくのは見事としか言い様がない。

人は一人では生きていけない。誰かと関わらずに生きていくことは不可能だからこそ誰かとの繋がりを求める。独りで生きていけないのに誰とも繋がれないという孤独は想像に難くなくだからこそ必死で居場所を求めて藻掻く姿は切なくもひどく真っ当に思える。

 

人が生を受けて初めて手にする絆は家族である。そしてそれは多くの人にとって絶対的な居場所である。それ故にそれを失くしてしまった時、もう世界のどこにも行く宛がなくなったような気持ちになる、そして執着するのだろう。どうにかして理解してほしくて、受け止めてもらいたくて、この世にたった一つの居場所である繋がりに。

そして久部六郎もそう願う、どこにでもいるただの青年だ。

8話の中で、UDIに来た父親に否定された六郎を励ますようにミコトが食事に誘うシーンがある。六郎はミコトに父親との確執を語りながらも決して父親を明確に非難するような言葉を口にしない。まるで父親の期待に添えない自分が悪いかのように自分を責める、彼の中にはどうか自分を見て欲しい、愛されたいという健気で悲痛な思いがある。

人はある種閉鎖的な空間の中にいると何が正当で何が不当なのか判断出来なくなる。こと“親子”という関係を見てみるとパワーバランスは圧倒的に親が上になる。親は子がいなくとも生きていけるが子は親がいないと生きていけないからだ。自分が何かを発した時それが尽く否定されたらどうだろうか。自分の意思が父親を不快にさせ、傷つけると思った時、彼は自分の言葉を声にするのを辞めたのだろう。そして自分の内へと閉じ篭った。だからこそ長いこと自分自身の意見を持ってこなかった。むしろ持つ必要はなかったかもしれない。彼の中で絶対的に正しいのは父であったからだ。(その証拠にUDIに来た当初「法医学は死んだ人の学問でしょう・・・」と父の価値観を口にしている)

しかし父親の用意したレールを外れて出た外の世界で多くの人と関わり、初めてはっきりとした自分自身の意思と感情と出会う。そして戸惑う。六郎は今まで父親の顔色を伺いその抑圧に怒りを持つことも出来ずにいた、父の望むように生きることが当たり前の世界で正常な判断基準を失ったただの子供だった。

そこでミコトが六郎に言う。

「腹立つなぁ。六郎の父」

ずっと躊躇ってきた父への怒りをミコトはするりと言葉にする。

彼が父へ怒ってもいいんだ、自分の意見を持つことや自分の人生を生きることは正常なのだと示す。これは六郎への承認に他ならないしこのあとの「うちの六郎」という表現がまさに彼が固執する父、ひいては家族の他にも居場所があることを伝えている。

とても男前な女であるミコトと臆病な男である六郎。いやーーーここの2人は非常に対照的で、まるで姉弟のようで見ていて和みました。だってその後「出来損ないの息子ですよ、六郎の六はろくでなしのろく」って自虐してるのも半分は照れ隠しだったでしょう・・・!(もちろん半分は彼の父の期待に答えられない自分に対しての本音なんでしょうけど)

 

六郎というキャラクターは純粋で心根の優しい青年だが、かと言って完全に真っ白で神聖な人物ではない。だからこそ自分が父親に認められるために編集部のスパイとしての役を引き受けてしまうわけだがその利己的な発想は非常に人間臭くて魅力的に思える。役どころの設定だけを見てしまえば単に嫌な奴になってしまうがそこで視聴者に不快感を抱かせないのは彼が完全にヒールになりきれない迷いと葛藤を覗かせるからである。そしてここでそれを絶妙に体現するのが窪田正孝である。その迷いと葛藤をただの優柔不断で流されやすい八方美人に見せることなく気が弱いがその奥にある芯の強さを育て咲かせる一人の青年の成長を見事に演じている。彼の凄いところは間の取り方や話し方だけでなくその表情や視線の動きで六郎の心情をじわりじわりと伝えてくるところである。件の居酒屋のシーンも、ミコトの言葉、「腹立つなぁ」の後の表情(自分の不甲斐なさに対する言葉だと思った諦めの心情)とそのあとに続いた「六郎の父」の後の表情(自身を否定されなかったことに対する驚きと戸惑い)たった一行の台詞の中に六郎が感じるであろう感情の流れを緻密に繊細に表現している。まるで窪田くん自身が六郎のように。

 

そしてこのあと第8話の答えが帰結するシーン。

亡くなったことでようやく解りあって還る場所に迎え入れられた町田三郎と美代子さん。

生きているのに、解り合えずに還る場所を失った六郎。いっそ皮肉とも言える完全な対比の中で戻ったUDI。

そこで何気なくかけられる「おかえり」という声。六郎は一瞬茫然として、突然涙がこみ上げてくる。

居場所があるという安堵感と失くしてしまったものへの喪失感。否定された哀しみと受け入れられる喜び、全てが綯交ぜになって苦しい気持ちと心配させたくないと笑顔を作る優しさ。窪田くんの六郎を通じて一気に感情が流れ込んできた。それはドラマをみて、あぁ演技がいいなと感じる漠然としたものではなくて電流のように、稲妻が走って一瞬で引き込まれた。これは作りこまれた何かではなくて、この人の内にあるものだと。そして思った、この人のことをもっと知りたいと。

 

 

そこからは怒涛の勢いだった。

まず1~2週間で過去のドラマ~映画を半分以上は観た。それこそ寝る間も惜しんで平日から。おかげで会社で屍のようだったけど心はかなり充足していた。

ドラマの円盤というものはそれなりに高価なものだったけどNのために、僕たちがやりました、ラストコップ、アンナチュラルは購入した。軽く十数万飛んでいった。(通常営業)

元々好きなものは手元に形として残しておきたいタイプなので、ただ流石に全部は購入するのは厳しいのでhuluに加入しゲオにてレンタルもした。その中で得た感覚は、やはりあの時感じた電流は間違っていなかったということだ。それは過去作品を遡っていきケータイ捜査官7に行き着いた時にも変わらない感想で窪田正孝の根幹に惚れ込んでしまっていることに気づいた。

 

彼がいろんなところで自身を語っていることだが「人見知り」で「人が苦手」それ故に独特な雰囲気を持っており職人気質なところがある。

しかし彼のいいところはだからといって無闇に人を遠ざけるということをしないところである。

演技にも活かされる性質だと思うが彼には人を理解しようとする心がある。その能力と才能がある。つまりは想像力である。自分以外は全員等しく他人であり価値観は人によって違う。だからこそどんなに近しい人であっても本当に通じ合うことは難しい。人を思いやるとき大切なことは相手の心を考える想像力である。彼は本質的にそれが出来る人であり、それが節々からにじみ出る優しさなのだと思う。

そんな彼だからこそ演じる役に生々しさがある。実際過去作を見返すと様々な役柄を演じているがどれも説得力がある。もちろん役の系統としての個人的な好みはあるがどんな役でもそこに一貫性があるのは彼が役を演じているのではなく自分の中に演じる人物を落とし込んで一体化しているからだと思う。

 

 

 

デスノート

 

一例として是非この作品を挙げたい。

デスノートは原作も好きで、映画版もスクリーンで観に行った。

そしてドラマ版についても拝見しているので比較しつつ考えたい。

結果を言うと私は三者三様で全て好きである。それでもこの中で一番リアルなのがドラマ版のデスノートであるように思う。

まず原作と映画版について。

映画版は比較的原作に忠実な印象を受ける。夜神月というキャラクターは非常にクレバーで正義感を持ちながらも非常に冷酷な印象を受ける。漫画的と言えばいいのか、どこか超人的なイメージもある、一端の大学生にしては出来すぎているような気もする。

それに反してドラマ版の夜神月は非常に等身大の男の子である。頭がキレるという側面は残しながらも悩みや戸惑い、葛藤の方が目につくのがより視聴者の身近に感じさせられる。

どちらが良い悪いという話でもないので単純な好みで話をさせてもらうと私はドラマ版の月は人間くさくてとても好きなのである。

忘れてはならないのは始まりはただの大学生であるということ。デスノートの使用目的は彼の正義感からくる善行であったということ。夜神月は完全なるヒールではない。そしてこういった抽象的でどっちとも言い切れない曖昧さを演じさせたら窪田くんの右に出るものはいないと、私は思う。原作や映画版は淡々と周りを欺いていく非情さがあったが、ドラマの演出でもあるがモノローグが多く入ることで月の拙さが出ている。総一朗と対峙する場面でも誤魔化しきれないと分かっていながら言い訳のように言葉を重ねていく、その表情に焦燥感と迷いが見て取れるのが一人の大学生として一貫性とリアリティがある。

 

窪田くんが後輩に「泣きの演技はどうしたらいいんですか」と聞かれた時、「気持ちが乗ったら泣けるもの」と答えたがまさに彼は“演じる”のではなく役を“生きている”

からこその答えだと思う。

 

 

 

ケータイ捜査官

 

彼の芝居の原点とは

そのことを語る上でこの作品は欠かすことが出来ない。

当時19歳、彼が悩んで役者をやめようとさえ思っていた時期に出会ったのがこの作品である。恥ずかしながら彼に引き込まれるまでこの作品を知らなかった。若かりし日の窪田正孝が文字通り体当たりで挑んだ作品である。

見ていて最初に気づくことだが、この作品における演技については上手い下手、ではなくとにかく熱量が凄い。

メイキングや監督や演出の人からの彼への評価でも分かるように主演としてまずしたことは、役に寄り添うことだ。彼はどうやって演じようと考えるのではなくてどうやったらケイタになれるのか考えた。これがまさに彼の演技の原点である、人の心を理解しようとする心だ。本音を隠しながらも実際は排他的な世の中でそれが当たり前に出来る人というのは意外と少ない。

周りに心配されるくらいの入り込み方で、共演者も監督も口を揃えて「あの熱量のまま大物になったら凄い」と言った。松田さんは最後のイベントで「マサのケイタを演じるにあたっての、意気込みというか様式。役に入るときのスタンスがあって本当にケイタになる時間っていうのがある」「あの姿勢はすごい、ただ大人になってもあの姿勢やったら怖い、芸術的過ぎて」「心がグッとなりかねないくらい突き詰めている」

とにかくストイックな年下の姿にスタッフも共演者も胸を打たれて、実際画面越し、作品越しにもそれが演技ではなくまるでドキュメンタリーのようなリアルさで一視聴者の自分の胸を打った。それは若さ故の勢いと情熱であるかのように語られたが本質は今も変わっていない。

7の最終回のメイキング、デスノートを取り上げたZEROの特集、東京喰種の特典、私が知ることが出来る唯一の裏側のほんの僅かな映像の中にも、何か自分の中で高ぶらせるように真っ直ぐな瞳で静かに集中する窪田くんの姿が伺える。その姿勢は今もまだ決して変わっていない。

彼から滲み出るものはどんな役をやれども間違いなく感じられる。それはつまり彼にしか出せない味であり、替えの利かない唯一無二であるということ。

他の誰でも、同じ衣装を着て同じ台詞を言うことは出来るけれど、窪田正孝でなければきっとあの日のような稲妻は落ちてこないだろう。

 

彼の人生を変えた三池監督の「10年後 窪田を選んだ理由が分かる」という一言。

 

ここまでの軌跡で一歩ずつそれを証明してきた。

そして今年。ちょうど30歳となりその10年目となる年にまた一つステップアップをする大きな仕事がくることをひとりのファンとして期待せずにはいられない。